Coffee history
コーヒーの歴史
コーヒーの伝来
人がコーヒーを知る起源
①9世紀のエチオピアで、ヤギ飼いの少年カルディが、ヤギが興奮して飛び跳ねることに気づいて修道僧に相談したところ、山腹の木に実る赤い実が原因と判り、その後修道院の夜業で眠気覚ましに利用されるようになったとの説。
②13世紀のモカで、イスラム神秘主義修道者のシェイク・オマール が、不祥事(王女に恋心を抱いた罪)で街を追放されていた時に山中で鳥に導かれて赤い実を見つけ、許され戻った後にその効用を広めたとの説。
③15世紀のアデンで、イスラム律法学者のゲマレディンが体調を崩した時、以前エチオピアを旅したときに知ったコーヒーの効用を確かめ、その後、眠気覚ましとして修道者たちに勧め、さらに学者や職人、旅をする商人へと広まっていったとの説。
エチオピアでは、高原地帯に自生するコーヒーノキの果実の種子が古くから食用にされていて、現地の人はコーヒー豆を煮て「ボン」という名で食べていたと考えられています。
奥地ではボンを煮て食べる習慣が長く残り、エチオピア南西部の奥地に住むオロモ族の間には子供や家畜の誕生を祝ってコーヒーと大麦をバターで炒める「コーヒーつぶし」の儀式が残るそうです。
また、エチオピアでは乾燥させたコーヒーの葉で淹れた「アメルタッサ」、炒ったコーヒーの葉で淹れた「カティ」という飲み物も愛飲されているとか。
中東諸国でのコーヒーの伝説
当初コーヒーはイスラム世界の寺院で秘薬として飲まれ一般の人が口にする機会はなかったようです。イスラム神秘主義の修道者(スーフィー)達によって愛飲され、コーヒーの起源にまつわる3つの伝説にはいずれもスーフィーが関与しているようです。スーフィーたちは徹夜で行う瞑想や祈りのときの眠気覚ましとして用い、宗教活動の中で飲用され神聖視されたました。やがてカフワ(欲望を減退させるとしての飲料やワインの別名)と呼ばれるようになり、スーフィーたちは夜の礼拝の時にカフワを飲用し、仲間内で回し飲みをしていたと伝えられています。
13世紀に入りコーヒー豆が煎られるようになり、香りと風味が付加された飲料は多くの人間に好まれるようになりました。豆が煎られるようになった経緯は不明ですが偶発的に起きた何らかの要因で、豆が焼かれた時に出た芳香がきっかけになったと考えられています。トルコ・イラン・エジプトでは、豆を煎っったときに使われた1400年代の道具が発掘されていて、コーヒーの一般への普及に伴い当時の陶工達はコーヒーカップに相当する器の製造も手掛けるようになりました。
15世紀以後にカフワはイエメンからイスラム世界に広がり、イエメンの古都では1450年頃にスーフィーによってコーヒーが飲まれていたことを記す考古学的な資料が発掘されました。16世紀初頭のメッカ・メディナ、またカイロのモスクでコーヒーを飲みながら礼拝を行うスーフィーの姿が多く見られ、同時にコーヒー飲用の宗教的な是非が大きな問題となりました。1511年にはメッカで高官ハーイル・ベイ・ミマルによってコーヒー飲用の是非が諮られた後、メッカ内のコーヒー豆が焼かれ、コーヒーを売買した者や飲用した者は鞭打ちに処すコーヒーの弾圧事件が起きます。翌年にカイロから「コーヒーの飲用に随伴する反宗教的行為の取り締まり」のみを許可する通達が出され、1525年~26年に風紀を乱すとしてメッカ内のコーヒーハウスの閉鎖が命じられましたが、コーヒー自体の飲用は禁止されませんでした。
コーランでは炭の食用が禁じられており、煎ったコーヒー豆が炭に酷似している点から、コーヒーの飲用がイスラム法に抵触している疑い、或いはコーヒー自体が宗教的逸脱性に該当する懸念で、コーヒーの飲用に対する反対意見も出続けます。また、コーヒーを提供する店が政治的な活動の場や賭博や売春の場となりえたために国家から嫌悪されることになります。コーヒーの弾圧後もカイロやメッカでは時折コーヒーの禁止令が出され、コーヒー店が襲撃される事件も起きました。
初期のイスラム世界のコーヒー店では大鍋にいれて温めて小さな容器にに移して提供されていたようです。コーヒーに砂糖と牛乳を入れることはほとんどなく、調味には主にカルダモンが使われていました。また、牛乳を入れたコーヒーはハンセン病の原因になるという迷信があったようです。1600年頃のカイロでコーヒーに砂糖が入れられ始められ、1660年頃に中国に滞在していたオランダ大使がコーヒーに牛乳を加える飲み方を始めたと言われています。17世紀のカイロを訪れたヨーロッパ人ヴェスリンギウスはコーヒーの苦みを無くすために砂糖を入れる人間が現れていたことを記し、トルコでは「コーヒーは甘くなくてはならない」という格言が生まれたそうです。
オスマン帝国を訪れたヨーロッパの商人たちはコーヒーを好奇の目で見、故郷の人間にコーヒーの存在を伝えます。ヨーロッパ世界でもコーヒーハウスが建つようになりコーヒーの需要は増加しますが、供給源はイエメンに限られていたこともあり、ヨーロッパの商人に対抗できる商品を探していたカイロのイスラム商人たちはイエメンのコーヒーに着目し、コーヒー交易を独占しました。
トルコ革命を経て成立したトルコ共和国ではコーヒーは生産されておらず、消費量も少ないですが、茶がトルコの主要な飲み物となった後も、トルコでは茶はあくまでも略式の飲み物で、コーヒーが正式な場で出される飲み物だととらえられます。オスマン帝国の支配下に置かれていたこともあるバルカン半島でも、セルビア風の煮出しコーヒーとともにトルココーヒーが飲まれています。
インドでのコーヒーの伝記
インドでは、1600年代にイスラム教の聖者ババ・ブータンがメッカ南のイエメンで巡礼を終えインドに帰国する時に、密かにコーヒーの種7粒を持ち出しマイソール地方の標高1829mのチャンドラヒルに植え、その一粒が成長し実をつけたと言われ、その後インドネシア・オランダを通じて世界中に伝わり、アラビカ種の原種の一つ、ティピカ種のルーツになったと言われています。
ヨーロッパでのコーヒーの伝記
17世紀初頭のヨーロッパではコーヒーはまだ得たいの知れない飲料であり、植物学者や医学者以外の人間にはほとんど知られていなかったようです。1596年にフランスの医師・植物学者のカロルス・クルシウスが、イタリアの植物学者ベッルスからコーヒー豆と豆の調理法に言及した書簡を送られた記録が残っています。
「キリスト教徒の聖なる飲み物であるワインをイスラム教徒は飲めないため、悪魔からコーヒーを与えられる罰を受けている」として、「悪魔の飲み物」にあたるコーヒーの飲用に反対する人もいて、ローマ教皇にコーヒーに対する教会の見解を出すように求めました。1600年頃に当時のローマ教皇クレメンス8世はコーヒーに裁判をかける為に自ら味見をします。クレメンス8世はこの時にコーヒーの香りと味に魅了されたと言われ、クレメンス8世は悪魔の飲み物であるコーヒーに洗礼を施して、キリスト教徒がコーヒーを飲用することを公認します。歴史研究者の中には、クレメンス8世が裁判の前からコーヒーを愛飲しており、自身の経験からコーヒー飲用の禁止の徹底が難しいと考えて公認したと推測する意見もあります。
17世紀前半、地中海貿易において主導的な役割を果たしていたヴェネツィアの商人を介してコーヒーはヨーロッパ各地に広まっていき、17世紀のヨーロッパ社会において、コーヒーはアルコール度数の低いビールやワインに代わる、衛生的な飲料として受け入れられます。また、コーヒーがもたらす覚醒作用も好意的に捉えられ、コーヒーはアルコール飲料と逆の性質のものと見なされるようになりました。コーヒーは万能薬のように時折紹介され、イスラム世界の「コーヒーと牛乳を一緒に飲むとハンセン病の原因になる」という迷信までも伝えられます。
イギリスでは1650年にオックスフォードでコーヒー・ハウスが営業を始め、1652年には初めてロンドンにコーヒー・ハウスが開業します。最初はイギリスの人間にとってもコーヒーは馴染みのない飲み物であり、コーヒー・ハウスの近隣の住民が、コーヒーの「悪魔の匂い」の対処を訴え出た記録が残っているようです。
初期の反発にもかかわらずコーヒー・ハウスは順調に数を増やしていき、1666年に起きたロンドン大火で多くのコーヒーハウスが焼失したものの、17世紀末には3,000軒にのぼるコーヒーハウスが存在していたようです。コーヒーハウスの拡大を受けて、1674年に夫がコーヒーハウスに入り浸っていることを非難し、コーヒーが性的不能の原因となることを主張する、「ロンドンの家庭の主婦」による声明文が発表されます。そして、コーヒーの有害性を非難する「ロンドンの家庭の主婦」に対して、男性たちのコーヒーへの弁護も公開されました。コーヒー・ハウスはロンドンにおける社交・商取引の場として多くの客に利用されましたが、18世紀半ばからロンドンのコーヒー・ハウスの数は減少していきます。コーヒー・ハウスに代わる社交場として、クラブ、ティーハウスが台頭し、次第にイギリスの家庭には紅茶が定着したからです。
フランスでは、1669年にオスマン皇帝メフメト4世によって派遣された使節スレイマン・アガが、ルイ14世にコーヒーを献上したことをきっかけに上流階級にコーヒーが広まったそうです。1671年にマルセイユにフランス最初のコーヒー・ハウスが開業した時、商売敵のワイン商たちから強い反発を受けたとか。ワイン商の要求を受けた医師がコーヒーが健康に及ぼす悪影響を主張したにもかかわらず、コーヒーはフランスで人気を得ていきます。1672年にアルメニア人商人パスカルによってパリで最初のコーヒー・ハウスが開かれ、エスファハーン出身のイラン人グレゴワールは劇場に集まる俳優や批評家を対象としたコーヒー・ハウスを開いて成功を収めます。1686年にはカフェ・プロコープが開店し、文人や政治家などの多くの人間が議論を交わしたとか。また、かつてのフランスではコーヒーが心身に悪影響を及ぼすという迷信が広く知られて、「コーヒーの毒性」を消すためにコーヒーに牛乳をいれるカフェ・オ・レが考案されたのもこの頃のようです。
オーストリアには、オスマン帝国との戦争にまつわるコーヒーとコーヒー・ハウス伝播の有名な逸話が存在しています。フランスに使節を派遣したメフメト4世は1683年に第二次ウィーン包囲を行い失敗に終わり、第二次ウィーン包囲でヨーロッパ諸国のスパイとして活躍したゲオルク・フランツ・コルシツキーが、オスマン軍が放棄した物資の中から発見されたコーヒー豆を手に入れ、戦後ウィーンに初めてコーヒー・ハウスを開いたのがオーストリアにおけるコーヒーの始まりだと言われています。また、ミルクコーヒーの考案者とする伝承も存在しています。しかし、ヨーロッパ側が獲得した戦利品にコーヒーが含まれていないなどの理由によって、逸話の信憑性は疑問視されているようです。ウィーン包囲から20年近く前の1665年にウィーン駐在のオスマン大使カラ・マフムト・パシャによって町にコーヒーが紹介され、1666年にカラ・マフムトが帰国した後にコーヒーが販売されるようになったことが記録には残されています。1683年のウィーン包囲より前に、町にはすでに2つのコーヒー・ハウスが存在していたとも考えられています。客が牛乳、生クリームなどの量を調節して自分好みのコーヒーを注文できる点がウィーンのカフェの特徴であり、ウィンナ・コーヒーなどの飲み方が知られています。
かつてオスマン帝国の支配下に置かれていたハンガリーでは、16世紀末からコーヒーは知られていました。1541年のブダ陥落の直前、オスマン軍の陣営に会談に赴いたハンガリーの使者が「黒いスープ」としてコーヒーを出された逸話はよく知られていて、「黒いスープ」という言葉は不吉な意味合いを持つようになったとか。
ドイツには1670年頃にコーヒーが伝わり、当初は上流階級に贅沢品として愛飲されていました。1679年~80年頃にハンブルク、1721年にベルリンにコーヒー・ハウスが開業し、18世紀後半にはビールに代わる飲み物として一般家庭に普及します。ライプツィヒではコーヒーが大流行し、町で最初のコーヒー・ハウス「カフェー・ボーム」にはザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世も訪れたと言われています。
1760年代から1780年代にかけて、身分秩序の維持とコーヒー輸入の抑制を目的として、庶民を対象としたコーヒー禁止令がドイツ各地で施行されました。プロイセン王フリードリヒ2世は国内の経済を脅かすコーヒーの消費の抑制を試み、王立の企業にコーヒーの製造を独占させたのです。1766年にプロイセンへのコーヒー輸入は統制を受け、1777年にフリードリヒ2世はコーヒーの禁止を布告します。ドイツの庶民の間では、本物のコーヒーの代わりにチコリ、大麦などの他の作物を加工した代用コーヒー が飲まれることが多くなり、「ドイツのコーヒー」といえば代用コーヒーを指す時代が続きます。庶民は高い値が付いた本物のコーヒーを飲むときには、少量のコーヒーを多量のお湯で割って飲んだそうです。また、プロイセンでは供給が絶たれたコーヒーの密輸が横行し、コーヒーへの関心はより高まりました。1786年に王立企業のコーヒー産業の独占は廃止され、フリードリヒ2世の死後に規制は解除されました。チコリを使った代用コーヒーはナポレオンの大陸封鎖令によってコーヒーの供給が途絶えたフランスでも飲まれ、ナポレオンの失脚後もチコリの代用コーヒーは飲まれています。
17世紀から18世紀初頭にかけて、ヴェネツィアにもコーヒー店が誕生します。ヴェネツィア共和国末期には多くのカフェが営業し、さまざまな階層の人間が集まる社交の場となります。ヴェネツィアのカフェは売春や賭博の場にもなり、政府によってしばしば風紀の引き締めを目的とした規制が実施されたました。2度にわたるカフェ撲滅運動の後も、市民の抵抗によってカフェは生き残ります。1720年に開店したカフェ・フローリアンは政府の規制と同業者との競争を潜り抜け、ヨーロッパ最古のカフェとして営業を続けています。
17世紀末には、ロシアでもコーヒーが知られるようになりました。イギリス人医師サミュエル・コリンズは、モスクワ大公アレクセイ・ミハイロヴィチにコーヒーを薬として処方しました。ピョートル1世は社交界にコーヒーを普及させようと試み、彼以降の皇帝もコーヒーを愛飲していたようです。しかし、茶がロシアの国民的飲料となっていたのに対して、コーヒーは貴族、インテリ、芸術家が好む飲み物にとどまっていました。スカンジナビア半島には18世紀までコーヒー、茶といったカフェイン飲料は普及しませんでしたが、1746年にスウェーデンでコーヒーと茶の過度の飲用を批判する声明が出されます。コーヒーが有害な飲料であると示すため、18世紀後半にスウェーデン国王グスタフ3世が人体実験を実施したという真偽不明の逸話が存在します。スウェーデンでは1820年代初頭までコーヒー禁止令が数度出されますが、スウェーデン政府がコーヒーの飲用を認めて以降、スウェーデンは世界でも上位のコーヒー消費国となりました。
アメリカ北部へのコーヒーの伝記
アメリカ北部には1640年頃にオランダ、また1670年頃にイギリスによってコーヒーが持ち込まれたと考えられています。
初期のアメリカ合衆国では大衆の飲み物は紅茶で、コーヒーは贅沢品でしかありませんでした。1683年頃にニューヨークはコーヒー豆の国際的な取引場となり、イギリスと同様にニューヨーク、ボストンでも続々とコーヒー・ハウスが開店します。アメリカ独立の機運が高まる中で起きたボストン茶会事件は、アメリカ国民の紅茶への関心を薄れさせるきっかけとなり、1812年からの米英戦争で紅茶の供給量が減ることでコーヒーへの関心が高まります。アメリカの独立後にはハイチやマルティニーク島・ブラジルから大量のコーヒーが流入し、価格が下がったことで次第にコーヒーが紅茶に取って代わっていきます。また、コーヒーにかけられる関税が低かったためにコーヒーの普及の一因となりました。1783年のアメリカ合衆国民1人あたりのコーヒーの年間消費量は約25gに過ぎず、1830年代までには年間2.3kg以上のコーヒーを消費するようになりました。それでも1830年代の時点で、まだコーヒーは贅沢な嗜好品であり、一般の人間に日常的に飲用されるまでには至ってなかったようです。
輸送や包装技術が発達していなかった時代では荷揚げされた豆の品質は悪かったようで、劣化した豆で淹れたコーヒーは様々な着色料が添加され、風味を補うために豆と一緒にシナモンやチョウジ・ココアやタマネギが焙煎されたそうです。19世紀初頭では、品質の悪いコーヒー豆をいかに工夫して飲むかを試行錯誤したようです。やがて鉄道の発達や蒸気船の導入によって、鮮度を保ったまま豆を輸送することができるようになると、1870年代にはラテンアメリカからの大量のコーヒーが出荷され、輸送・焙煎・包装の技術革新によってコストが削減されると、コーヒーの市場価格は下がり大衆化が進みました。
1920年から禁酒法が施行された時には、酒の代用品としてコーヒーの需要が更に高まりました。
日本へのコーヒーの伝記
日本には18世紀に長崎の出島にオランダ人が持ち込んだといわれています。出島に出入りしていた一部の日本人がコーヒーを飲用していたと考えられ、出島に出入りすることが許されていた丸山遊郭の遊女の中には、オランダ人からコーヒーを贈られた者もいたようです。コーヒーについて言及された日本最古の書物の1つと考えられている志筑忠雄の『万国管窺』にはわずかに記述が存在し、1781年~1788年に日本語に訳された『紅毛本草』には「古闘比以」という名でコーヒーの詳細な説明がされています。江戸幕府が敷いていた鎖国で民衆にまではコーヒーは行き渡らず、風味が当時の日本人の嗜好に合わなかったようです。1804年にコーヒーを飲んだ大田南畝は、「焦げくさくして味ふるに堪ず」という感想を残したと言われています。ヨーロッパ文化に関心を抱く蘭学者達はコーヒーを飲んだ感想を記し、大黒屋光太夫などの国外に漂流した者も漂着先でコーヒーを飲用したとか。
幕末期の1856年に日本へのコーヒー輸入が開始されると、1856年頃には蝦夷地に駐屯する幕臣に「寒気を防ぎ、湿邪を払う」ためにコーヒー豆が支給された記録が残っています。この時に津軽藩も派兵していたそうで、当時はコーヒー豆を黒くなるまで煎りすり鉢で粗挽きした後に麻袋に入れて、湯に浸していたとか。こうした当時の抽出方法を成田専蔵珈琲店(青森県弘前市)が「藩士の珈琲」として再現しています。開国後の1864年、横浜に設けられた外国人居留地の西洋人を対象としたコーヒー・ハウスが開店し、欧風の食文化が日本で紹介されるとコーヒーも飲まれるようになりました。1868年(明治元年)に、コーヒー豆が正式に輸入されるようになります。翌1869年に横浜で萬国新聞を発行していた外国人エドワルズが日本初のコーヒーの宣伝広告を打ち出し、1875年には泉水新兵衛による日本人初のコーヒーの販売広告が読売新聞紙上に出されました。1872年に出版された日本で最初の西洋料理解説書『西洋料理指南』では「カフヒー」の名で飲み方、淹れ方が紹介されています。
本土より南方の小笠原諸島では気候が温暖で、欧米系島民が幕末期から定住していた影響もあって、1878年と日本で最も早くコーヒーが栽培された記録があります。
日本では、沖縄・小笠原諸島で小規模ですが生産・販売されています。明治11年に勧農局の武田昌次氏によって、ジャワ島で入手した苗を小笠原で栽培を試みたのが最初とされます。しかし病害虫が流行し、また経済性でサトウキビ栽培に及ばないため、コーヒー栽培は中止されました。彼は小笠原の殖産のために、養蜂や牧畜と共にコーヒー栽培を試みます。インドネシアからオランダよりロブスター種とリベリカ種7品目が持ち込まれたことが記録されています。 小笠原でのコーヒー栽培を提唱した田中芳男氏の御子息である田中節太郎氏は、八重山諸島でのコーヒーの栽培を開始します。昭和初期には台湾でもコーヒー栽培が試みられましたが、さび病によって成功せず、第二次世界大戦後に奄美群島で行われたコーヒー栽培は台風の被害と収穫量の少なさに起因する利益の低さより、栽培は中止されました。
明治初期にコーヒーを飲用していたのは上流階級の一部に限られ、一般層に普及したのは明治末期から大正初期にかけての時期になってからです。コーヒーは牛乳の臭みを消す香料としても使用されたり、後には「コーヒー牛乳」が考案されました。1899年に加藤サトリ氏が真空乾燥法によるインスタントコーヒーの製造に成功しますが、当時の日本に販路は存在せず、アメリカに渡って1901年のパンアメリカン博覧会で発明品を公開する事になります。
アジア諸国のコーヒーの伝記
韓国では第二次世界大戦後にアメリカの影響を受けてコーヒーが普及していきます。
東南アジアでは、コーヒーは主に輸出用の作物としてヨーロッパ諸国から導入され、植民地が消滅した後には現地の人間の日常生活の中で飲まれるようになっていきます。フランスはベトナム、ラオスでコーヒー栽培を開始し、独立後も両国にコーヒーを飲用する習慣が残ります。ベトナムでは深煎りの細かく砕かれた豆でコーヒーが淹れられており、アルミ製のフィルターで濾して飲まれています。練乳を入れたカップの上にフィルターを置いて湯と挽いた豆を注ぎ、コーヒーと練乳をかき混ぜて飲むベトナムのスタイルは、ベトナムコーヒーとして知られています。ラオスではネルドリップによって淹れたコーヒーに練乳が加えられて、その甘口のコーヒーは「カフェ・ラーオ(ラオスのコーヒー)」と呼ばれています。インドネシアでは焦げるほど強く焙煎して粉状にした豆に黒くなるまで炒ったトウモロコシを配合し、多量の砂糖を入れたコーヒーが飲まれているようです。17世紀以来オランダが多くのコーヒー・プランテーションを設置したジャワ島では、多量の砂糖やコンデンスミルクが入れられたコーヒーが農民のエネルギー源になった背景があるようです。
列強諸国の植民地とならなかったタイではコーヒー栽培は行われず、苦いものが敬遠される傾向もあってコーヒーを飲む習慣は最近まで存在していなかったようです。20世紀末からタイでもコーヒーの飲用が広まり、砂糖と粉末ミルクを加えて甘くしたアイスコーヒーが好まれています。
大量生産国ブラジルへのコーヒーの伝記
低価格のアラビカ種のコーヒーがもっとも大量に生産されるブラジルは、国際社会におけるコーヒーの流通や価格設定に強い影響力を有しています。ブラジルのコーヒー伝播にまつわる有名な伝承として、1727年にフランス領ギアナとオランダ領ギアナの間に起きた紛争の仲裁のために派遣されたブラジルの使節パレータ が、恋仲に落ちたフランス代理総督夫人からコーヒーの種を託されたという逸話があります。1773年~74年にフランシスコ会の修道士によって、リオデジャネイロの聖アントニオス修道院の庭に種子が植えられた記録が残っています。
フランス皇帝ナポレオンの大陸封鎖令を経験したヨーロッパで砂糖の自給が可能になった頃、ブラジルは砂糖に代わる輸出品としてコーヒーに着目しました。ブラジル皇帝ペドロ1世は国内の農業を振興し、1818年にサントスから出荷されたブラジル産のコーヒーがヨーロッパに向けて輸出されました。ペドロ2世の即位後にリオデジャネイロ州でコーヒー栽培が本格的に行われるようになり、コーヒー栽培はミナスジェライス州、サンパウロ州にも拡大します。1870年代にブラジルのコーヒー栽培の中心地はリオデジャネイロ州から、ミナスジェライス州とサンパウロ州に移ります。大規模なプランテーションと奴隷制度に基盤を置いた栽培によって、ブラジルは19世紀のコーヒー市場を席巻しました。1888年にブラジルで奴隷制度が廃止された後、賃金の安価なヨーロッパ系移民がコーヒー産業に従事しました。旧来の大土地所有者から転身したコーヒー農園主をはじめとする支配者層の主導でブラジルのコーヒー産業は拡大していきますが、彼らが農園で実施した焼畑農業は大規模な環境破壊を引き起こしました。
20世紀初頭からブラジルではコーヒーが過剰に生産される状態が慢性的に続き、州知事たちは価格の暴落の阻止に苦慮しはじめます。生産量の増加に伴うコーヒーの低価格化に際して、1902年にブラジルをはじめとするラテンアメリカのコーヒー生産国はニューヨークに代表者を派遣し、初めて「コーヒーの生産と消費を考える国際会議(国際コーヒー会議)」を開催しました。第一次世界大戦直前のブラジルでは、国内生産の約90%をコーヒーが占め、その多くがアメリカに輸出されていました。第一次世界大戦中、アメリカとフランスは余ったコーヒーの買い取りを条件にブラジルに連合国側への参戦を要請し、余ったコーヒーが売却されました。1920年にアメリカで禁酒法が施行された際にアメリカはラテンアメリカ各国からコーヒーを大量に輸入し、ブラジルには「コーヒー・バブル」が到来します。しかし、1929年の世界恐慌によって、ブラジルのコーヒー・バブルは崩壊します。コーヒーの価格は50%以上下落し、コーヒー栽培に従事する労働者の賃金も50~60%削減されて大量の失業者が出ました。なんと余ったコーヒーは海上に投棄・焼却され、約47,000,000袋のコーヒーが破棄されたそうです。1930年にブラジル政府はネスレに過剰に生産されたコーヒーの引き取りを依頼し、1938年にスイス、翌1939年にアメリカ合衆国でネスカフェの販売が開始されることになります。
他の中南米諸国へのコーヒーの伝記
コロンビアには、18世紀末から19世紀初頭にかけての期間にコーヒーが伝わりました。19世紀半ばのコロンビアでは内陸部のサンタンデール地域でコーヒー栽培が行われていましたが、コーヒー産業はブラジル、コスタリカに後れを取っていました。1870年代に世界規模のコーヒー需要の高まりが起きると、サンタンデル、クンディナマルカ県、アンティオキア県でコーヒー栽培が活発化すします。コロンビアはコスタリカよりも品質が高いコーヒーを大量に生産することを目標とし、1870年代から1910年代にかけて、コロンビアにも周辺国より遅れてコーヒー産業の拡大期が訪れます。コスタリカと同様にコロンビアのコーヒー農園ではコーヒー以外の作物も栽培され、それらは労働者の食糧や売買に充てられます。20世紀初頭にはコロンビアのコーヒーの品質は国際市場で高い評価を受けるようになり、コーヒー産業は輸出産業として確立されました。また、コロンビアでは品種改良が盛んに行われ、直射日光に強い耐性を持つ新品種が開発されています。
グアテマラではラファエル・カレーラによって、コチニールに代わる商品としてコーヒーの栽培が開始されます。グアテマラでのコーヒー栽培では先住民であるインディオが酷使され、反乱や農地からの逃亡が頻発したようです。19世紀末にグアテマラに増加したドイツ系移民は大規模なコーヒー農園を開き、彼らによって近代的な技術がもたらされました。
ハワイへのコーヒーの伝記
1817年にスペイン人によってカウアイ島のハナレイにコーヒーが移植されたのが、ハワイにおけるコーヒー栽培の始まりとされています。1825年にマノアで本格的なコーヒー栽培が開始され、1828年にはコナでもコーヒーの栽培が始められこれがコナコーヒーとなります。天災や病虫害、糖業への転換によってコーヒー農園は減少していきますが、コーヒー栽培に最も適したコナに農園が集中するようになります。当初は現地人がコーヒー栽培に従事していましたが、次第に移民がコーヒー栽培に携わるようになり、1910年頃には日系移民がコーヒー栽培の中心となりました。
近代のコーヒーの伝記
エチオピアと近接するケニア、タンザニアにはコーヒーが伝播していなかったようで、1893年にカトリックの宣教師によってレユニオン島のコーヒーがもたらされたそうです。1900年代にはキリマンジャロ山でボーア人・イタリア人・イギリス人・ドイツ人らがコーヒーの栽培を始めるために定住し、1909年にはキリマンジャロの南の斜面に28のプランテーションが存在していたとあります。当時のドイツ政府はキリマンジャロの低地がコーヒー栽培に適していると考えて自国民の農地として確保し、残った高地を現地に居住するチャガ族の農地として割り当てましたが、政府の目論見に反して良質のコーヒーは高地で産出されました。コーヒーがケニア経済の中心となると栽培法や病害虫の対策の研究が進み、ケニアのコーヒー栽培は急速に発展します。キリマンジャロでは現地の人間がコーヒーの栽培・販売に携わり、ヨーロッパ人が助言者として協力する体制が出来上がり、両者が共同で経営するコーヒーの加工工場が建てられることになります。
1740年にはスペインの聖職者によってフィリピンにコーヒーが伝えられましたが、19世紀末のさび病の大流行の後は大規模栽培は行われなくなりました。1887年にフランスの植民地となったベトナムでもコーヒーが導入され、栽培されたコーヒーは主に現地のフランス人社会で消費されました。1990年代からベトナムでのロブスタ種のコーヒーの生産量が大幅に増加し、1999年までにブラジルに次ぐ世界第2位のコーヒー生産国となります。また、中国雲南省の保山には、タバコ栽培からコーヒー栽培に転作した農家が現れ生産国としての存在になりつつあります。
コーヒーの伝記年表
9世紀 -アル・ラーズィーがコーヒー豆を原料とする飲料「バンカム」の記述を残す
10世紀末/11世紀初頭 - イブン・スィーナーが「バンカム」の記述を残す
13世紀頃 - 焙煎されたコーヒー豆で飲み物が淹れられるようになる
1511年 -メッカでコーヒー弾圧事件が起きる
1550年代 - イスタンブールにコーヒーを供する店が開店する
17世紀初頭 - イスラーム法でコーヒーが公式に認可された飲み物となる
1605年頃 - ローマ教皇クレメンス8世によってコーヒーに洗礼が施される
1610年- イスラーム教徒ババ・ブーダンがメッカ巡礼の帰途イエメンから苗をインドに持ち帰えり、インドにてコーヒー栽培が始まる。
1650年 -オックスフォードにコーヒー・ハウスが開店する
1652年 -ロンドンにコーヒー・ハウスが開店する
1658年 -オランダ東インド会社によって、スラウェシ島とセイロン島でコーヒーの栽培が試みられる
1669年 -ルイ14世に面会したオスマン帝国の使節を介してパリでコーヒーが流行する
1671年 -マルセイユにフランス最初のコーヒー・ハウスが開店する
1672年 - パリにコーヒー・ハウスが開店する
1674年 - 「ロンドンの家庭の主婦」による、コーヒーに対する抗議文の発表
1679年/80年頃 - ハンブルクにコーヒー・ハウスが開店する
1680年 - オランダによってジャワ島にイエメンから取り寄せたコーヒーの木が移植される
1696年 -ニューヨークにコーヒー・ハウスが開店する
18世紀頃 - 日本にコーヒーが伝来する
1712年 - ヨーロッパに初めてジャワ産のコーヒーがもたらされる
1715年 - フランス領レユニオン島でコーヒーの栽培が開始される
1718年 - オランダ領スリナムでコーヒーの栽培が開始される
1721年 -ベルリンにコーヒー・ハウスが開店する
1723年 -マルティニーク島にコーヒーが移植される
1732年 - イギリス領ジャマイカにマルティニーク島のコーヒーが移植される
1740年 -フィリピンでコーヒーの栽培が開始される
1750年~1760年頃 - グアテマラでコーヒーの栽培が開始される
1773年 -ボストン茶会事件が起きる
1773年~1974年 - ブラジルのリオデジャネイロでコーヒーが栽培されたことが記録される
1777年 -プロイセン王フリードリヒ2世によるコーヒー禁止令
1800年頃 - ドゥ・ベロワによるドリップ・ポッドの改良
1800年頃 - パリでパーコレータが発明される
1806年 -ナポレオンが大陸封鎖令を出しコーヒー等が不足し代用コーヒーが使われる
1842年 -コーヒーサイフォンの原型となるダブル・グラス・バルーンが発明される
1870年代 - セイロン島、東南アジアでさび病が流行し、コーヒー産業が大打撃を受ける
1870年代 - リベリカ種の栽培が開始される
1878年 - 日本で初めてコーヒーの栽培が試みられる(小笠原諸島等)
1888年 - 日本初の本格的なコーヒーを供する飲食店・可否茶館が開店する
1893年 -ケニア・タンザニアにコーヒーが伝わる
1898年 -ベルギー領コンゴでロブスタ種が「発見」される
1900年代 - キリマンジャロ山でコーヒーの栽培が開始される
1901年 - パンアメリカン博覧会にインスタントコーヒーが出展される
1901年 -ルイジ・ベッゼラによって初のエスプレッソマシンが開発される
1906年 -デジデリオ・パボー二がミラノ万国博覧会にエスプレッソを出品紹介する
1908年 -メリタ・ベンツによるペーパードリップの考案開発がされる
1938年 -ネスカフェの販売が開始される
1958年 -日本で缶コーヒーが発明される
1961年 -エルネスト・バレンテによりFaema E61が開発されその後のE61抽出グループの原型となる。
1990年代 -セカンドウェーブと呼ばれるミルクを入れた深煎りのシアトル系のコーヒーが流行し始める
2000年代 -サードウェーブと呼ばれる単一品の浅煎りで丁寧に一杯ずつ淹れるコーヒーが流行する
2010年頃 -オセアニア圏を中心としたフラットホワイトと呼ばれるミルクメニューが流行りはじめる